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松江地方裁判所 昭和31年(わ)133号 判決

被告人 岡田勲 外一名

主文

被告人両名を各死刑に処する。

訴訟費用のうち、国選弁護人難波督に支給した分は、被告人岡田勲の負担とし、その余の部分は、被告人両名の連帯負担とする。

理由

(被告人両名の生立、経歴及び罪となるべき事実)

被告人岡田勲は、その肩書本籍地において、父亡台市、母ヨネの三男として出生し、昭和一六年三月本籍地附近当時の乙立村内所在八幡原尋常高等小学校高等科を卒業、引続いて乙立村青年学校本科に入つてこれを卒業、更に同青年学校研究科において二年間学んだ後、家業たる農業の手伝に従事していたが、昭和二五年頃から出稼のため生家を離れ、主として島根県飯石郡志々村、頓原町等で炭焼、製材の手伝等に従事して渡世し、昭和二九年中一旦本籍地の生家に帰つたが、昭和三〇年春、再び同郡来島村(現在赤来町)に至り、数箇月間同村内の熊谷義之方に下宿して、その農業の手伝をする傍、枕木製造の手伝に従事し、同年八月頃から、熊谷の斡旋で、肩書住居たる同郡頓原町大字佐見七〇五番地農業信高万之助方に作男として雇われて住込み、翌昭和三一年一月中旬頃、一旦同家を辞して数箇月間同部落内の藤原半一方、三島金次郎方等の農家を転々した後、同年六月頃から、再び右信高万之助方に住込み、爾来作男として農業、炭焼等の手伝に従事していたのであるが、右万之助(明治二七年六月一一日生)及びその妻ナツノ(明治三四年五月一八日生)は、農家としては、相当裕福な生活を営んでいたけれども、夫婦間には子供なく、従前屡々養子を迎えたことがあつたけれども、元来、夫婦共金銭に細かく、万事にかなり口矢釜しい性格であつたため、いずれの養子もその都度長続きしない有様であり、被告人岡田が住込むようになつてからも、同人に対する夫婦の態度は、依然として従前同様であつて、一時は、同人を同家の養子にしようかという話が出たこともあつたが、万之助夫婦の同被告人に対する信用がないため、これも何時しか沙汰止みとなり、同被告人としては、同家の養子となり得る見込も乏しく、而かも、当初約束のとおりの手間賃も、確実にこれが支払を受けないこともあり、且又、日常の小遣銭すら満足に貰えないのに、毎日朝早くから晩遅くまで働くべく督励されるので、これを以て万之助夫婦が理不尽に自分を酷使するものであると解し、かねてからその仕打を深く恨み、一面、軈て嫁を娶ることにでもなれば、相当の費用を必要とし、又、独立して製炭業を始めることにすれば、新しい炭焼窯を一つ設けるにさえ、尠くとも五万円以上の資金を準備しなければならないこととて、かねてから、独立するための纏つた資金の入手を強く希望していたものであり、

又、被告人神田太吉は、その肩書本籍地において、父亡磯市、母トキの三男として出生し、昭和一九年五月頃、本籍地の尋常高等小学校高等科一学年を中途退学し、爾来生家において、次兄隆太郎を中心とし、同人及び弟喜一郎と共に、家業たる農業及び製炭業に従事していたのであるが、生来浪費癖があつて、平素遊興の資金に窮すれば、秘かに衣類や木炭を持出して入質することもあり、その他、嘗て窃盗の嫌疑で取調を受けたことあり、又、昭和二七年一一月には、松江地方裁判所木次支部において、詐欺罪及び窃盗罪により懲役八月、執行猶予三年の判決を言渡され、なお、昭和二七、八年頃から慢性の左側陰嚢水腫及び副睾丸炎に罹り、これを根治するには手術を受ける外ないのであるが、生家では世帯主たる次兄隆太郎が母親や妻子等の家族を抱えており、家計は決して裕福でないため、次兄に対しては、右手術の件について相談することもできず、かねてから、手術費用の捻出について焦慮していたものである。

而して、被告人両名は、昭和三〇年中、岡田が前記熊谷方に下宿していた当時、偶その附近の製材所で神田が働いていた関係上、互に知り合うようになり、爾来交際を続けていたものであるところ、

第一、被告人岡田は、偶前記信高万之助が、昭和三一年一二月上旬頃には、同人がかねて他に売却した山林立木の代金を入手し得る模様であることを探知するや、ここにおいて、右万之助夫婦を殺害して、前記の如き夫婦の仕打に対する恨みをはらすと共に、右山林立木の代金その他の金品を強奪し、これを以て前記の如き独立して製炭業を始めるための資金等に充てんことを企てるに至つた。併しながら、犯行が発覚しないように、巧妙にこの計画を実現せしめんがためには、到底同被告人単独では成功覚束なしと考え、嘗て、被告人神田が岡田に対し「何か金儲の話はないか」と話しかけていたことがあるのを想起し、神田は腕力が強い上に、平素から素行悪く、小遣銭にも事欠く有様であつたので、同人に協力方求めれば、必ずやこれを快諾して呉れるものと考え及んだ末、同月三日午後四時過頃、被告人岡田は、被告人神田の居宅を訪れ、同人に対し「金儲の話がある」旨申向けてその関心を惹いた上具体的内容については、更めて話し合うべきことを約して別れた。而して、翌四日の夕刻頃、前記来島村所在の飲食店「ひようたん」で落ち合つた上、両名相携えて帰途に就き、信高方附近道路上において、被告人岡田が神田に対し、前記の如き万之助夫婦を殺害して金品を強奪せんとの計画を打明け、三万円乃至五万円程度の金員を分配することの条件で、これに加担方懇請したところ、被告人岡田においても、万之助が他に売却せる山林立木のことは、既に次兄隆太郎から聞いて知つていたし、且、前記の如く、手術費用の捻出について焦慮していたところから、即時これに賛同し、右計画実現のための具体的方法については、他日更めて相談することとし、唯、実行の日取につき、被告人岡田が適当と考える日の当日、信高方納屋西南隅から七米西方に在る電柱(工五一二号)に繩を結びつけて置き、その合図があれば、当日の夜九時に神田が信高方に出掛けるべきことを約した。而して、被告人神田は、更に翌五日午後三時頃、頓原町大字佐見地内の通称石鉄穴(石かんな)という山中に在る信高方所有の炭焼窯に岡田を捜し求め、ここにおいて、被告人両名間において、万之助夫婦殺害の方法、死体の処置等右計画実現のための具体的方法につき謀議を遂げたのである。さて、同月七日早朝、被告人岡田は、前記打合せに基き、信高方附近の前記電柱に荒繩(証第二四号)を結びつけ、右合図を諒知した被告人神田は、先ず、同日夕刻頃、かねてから知合の間柄である頓原町大字敷波居住の田中常夫方で赤犬の肉を肴として焼酎を飲んで元気をつけた上、同日午後九時頃信高宅に赴き、同所納屋内において、愈々本夜、万之助夫婦が就寝するのを待つて決行すること、万之助は岡田が、ナツノは神田がそれぞれ絞殺すること、その他事後の処置等につき、更に両名が打合せた後、被告人神田は、一旦、右田中常夫方に引返して飲み残りの焼酎一合を飲んだ上、午後一〇時頃再び信高宅に赴き、ここにおいて、被告人両名は、以上の如き共謀に基き、直ちに納屋内に設置してある電燈線のスイッチを外す等準備を調えた上、万之助夫婦の寝室たる母屋中六畳の間に相前後して忍び込み、就寝中の万之助を被告人岡田において、背後から右手で首を抱えるようにし、同じくナツノを被告人神田において馬乗りとなり、左手で咽喉部の辺を拇指と他の四本の指で挾むようにして下に押しつけ、それぞれ頸部を強扼して窒息死せしめ、以ていずれもこれを殺害し、次で、被告人両名は協力して両死体を一旦同所納屋の土間に運び、両死体の首に俗に「ニカワ」と称する背負繩をかけて納屋の二階に引上げ、更に、これを同所の梁にぶら下げて、恰も万之助夫婦が首吊自殺をしたかの如く装わせた上、母屋に引返し、室内を物色して、万之助所有の現金約三、九〇〇円、アメリカ製スーパーステンレス腕時計一箇時価約金四、〇〇〇円相当のもの(証第二六号)及び同人名義金一〇万七六二円預入れの頓原町農業協同組合普通預金通帳一冊(証第五号)を強取し、

第二、右犯行直後、被告人岡田は神田に対し、現金約三、五〇〇円を与え、更に、翌八日朝、頓原町農業協同組合において、前記強取に係る普通預金通帳を利用して金七万円を受取つた上、そのうち金一万八、〇〇〇円を神田に分配したのであるが、同月八、九両日に亘り、被告人両名は、相携えて広島県三次市に遊興に出掛けた際、同市内において、又、その前後信高方等において、納屋の二階の梁にぶら下げた儘の万之助夫婦の死体の処置につき、更に協議を重ねた結果、あの儘放置することは、却つて、犯行発覚の虞があり、寧ろ、万之助夫婦は旅行に出て不在中であり、且、偶岡田自身も外出中に出火したかの如く装つて、右納屋を焼燬すれば、両死体も跡形なく納屋諸共に焼失して仕舞い、結局、被告人両名の右犯行は、これを以て永久に闇に葬り去り得るものとなし、ここにおいて被告人両名は、納屋に放火すべく共謀の上、同月一〇日午後九時過頃、右納屋の二階において、梁にぶら下げてあつた両死体を同所床上に解き下し、いずれも俯伏せにして並べ、その上を万之助夫婦が生前使用していた敷布、衣類等の外、古い繩屑等多量の燃え易いもので覆い、更に、予め岡田が準備していたガソリンとモビール油の混合油約七立をその上にふりかけて放火の準備を完了した。次で、前記の如き被告人岡田のアリバイ工作として、同被告人は直ちに外出し、同部落内の前記藤原半一方に赴いて同所に宿泊することとし、他方被告人神田は岡田から現金五、〇〇〇円の外信高方にあつた中古自転車及び衣類数点を貰い受け、後刻自分が点火することを引受け、且、午後一一時以後を以つて点火時刻とすることにそれぞれ打合せができたので、岡田は直ちにその場に神田を残して右藤原方に赴いた。而して、被告人神田は、一旦同所を立去り、前記来島村に赴き、岡田から受けた右衣類を入質した後、「ひようたん」「かおり」「みなさま」と称する飲食店三箇所を逐次飲み歩いた上、自転車に乗つて、翌一一日午前三時頃、右信高方納屋に引返し、同所にかけてあつた梯子を昇り、二階の上り口の所で上半身を乗り出すようにして手を延し、前記放火の準備をした箇所の真近に放置してあつた菰に所携のマッチで点火して放火し、よつて、右両死体及び瓦葺二階建納屋一棟(建坪一二、五坪)を全焼させた上、更に、右納屋に隣接する藁葺平家建母屋一棟(建坪四一坪)に延焼させてこれをも全焼させ、以て右万之助夫婦の死体を損壊すると共に、人の現在しない家屋を焼燬し

たものである。

(証拠)(略)

(各弁護人の主張に対する判断)

第一、被告人神田の弁護人大脇英夫の、同被告人は、従犯たる地位に在るとの主張に対する判断

同弁護人は、被告人神田がナツノの首を絞めた際、同女は既に、同被告人以外の者に殺害(毒殺)されていた疑があるということ及び本件放火の準備完了後、被告人神田自身は、放火の実行行為に出でたものでないから、放火の点につき、同被告人は、無罪であるということを前提とし、仮に、万之助夫婦殺害の点について、被告人神田も或る程度の責任を免れないとするならば、同被告人は、相被告人岡田から謝礼を貰わんがため、同人に唆かされて、同人のため、犯行の手伝をしたに過ぎず、即ち、被告人神田は、本件共犯関係において従犯たる地位に在る旨主張する。

先ず、被告人神田がナツノの首を絞めた際、同女は既に、同被告人以外の者に殺害(毒殺)されていた疑があるとの点について、同弁護人は、第一、二回公判における冒頭陳述の際には、被告人神田がナツノを殺害したこと自体は、これを争つてはいなかつたのであるが、その後、同弁護人は、右の如く主張するに至つたのである。(第一、二回公判調書、大脇弁護人名義昭和三二年二月九日附冒頭陳述及び証拠申出書、同月二三日附証拠申請書、同月二五日附期日外証拠申出書並びに同年二月一三日附、同年六月三日附、同年七月二四日附、同年七月二九日附及び同年九月七日附各証拠申出書参照。)而して、右主張が次の如き被告人神田の供述を根拠とするものであることは自ら明らかである。即ち、被告人神田は、第一回公判審理の際には、同被告人がナツノを絞殺したこと自体は、これを否認してはいなかつたのであるが、その後第四回公判における同弁護人の質問に対する答として、自分が右手でおばあさんの首を絞めたとき、おばあさんは、声も立てず、抵抗もしなかつた、自分が転んだとき、万之助の体の何所かを踏んだが、万之助は眼を覚まさず、又、全然声を立てなかつた、おばあさんの首を絞めたとき、体にぬくもりがあつたかどうかよく判らない、少し固くなつていた、おばあさんの死体は、足を曲げた儘であつた旨供述し、同弁護人の一二月四日の晩岡田が、薬で殺すから、後始末を考えて呉れと言つたかとの質問に対し、はいと答え、更に、同弁護士のおばあさんの首を絞めたとき、おばあさんはまだ生きていたか、それとも、既に死んでいたか、君はどう思つたかとの質問に対し、はつきり判らないと答え、次で、昭和三二年三月七日、当裁判所が実施せる検証の際にも、現場における立会人の指示説明として、自分が右手で掴むようにして、おばあさんの首を絞めた、その際、おばあさんは動かず、又声も立てなかつた、その間、万之助も声を立てていない、自分もおばあさんを運ぶために抱えてみたが、重かつたので芋倉まで引きずつて行つたとき、おばあさんの足は曲つた儘であつた旨供述し、更に、当公判廷において(第一五回公判)、おばあさんの鼻の所に耳を当ててみたが、息をしているかどうか判らなかつたので、膝をついて首の所に右手を当ててみたところ、そのとき岡田が納屋に運ぼうと言つた、おばあさんは、自分が芋倉まで運び、その後は、二人で運んだ、自分はすべて岡田の命令通り働いたものである、おばあさんは、声も立てず、抵抗もしなかつた旨供述しているのである。併しながら、これ等の供述は、諸般の証拠に照し、いずれも到底首肯し難いものである。即ち、前顕証人榎木ヨシノの証言、同人の司法警察員に対する供述、井羅文男の検察官に対する供述等によれば、昭和三一年一二月七日当夜万之助夫婦は、夕食後二、三時間、午後九時頃まで、来客と雑談していたことが窺われ、又、前顕警察技手清水正敏作成の鑑定書によつて、万之助の死体の焼け残りの胃の中に、青酸カリその他何等の毒物も、その存在が認められなかつたことが明らかである。領置に係る万之助の日記帳(証第一号)の、一二月七日の欄には、一部分の記載がしてあり、更に、又、当夜、被告人神田が二回目に信高方に赴いた際、納戸の外から「勲さん勲さん」と二、三声呼んだところ、相被告人岡田が静かに納戸から出て「大きな声を出すな」と注意を与えたことは、公判廷において、被告人神田もこれを認めているところであるが、これ等の事実に照しても被告人両名が万之助夫婦の寝室に忍び込んだ際、万之助夫婦が生存していたことについては、全くこれを疑う余地がない。抑も、万之助夫婦を殺害した後、両死体の首に俗に「ニカワ」と称する背負繩をかけて納屋の二階に引上げ、これを同所の梁にぶら下げて、恰も、万之助夫婦が首吊自殺をしたものであるかの如く装つた本件において、右の如き首吊自殺を装う建前から言つても、絞殺以外の殺害方法は到底考えられないところである。

次に、本件放火の準備完了後、被告人神田自身は、放火の実行行為に出でたものでないとの点につき、同弁護人は、その理由として、先ず、本件火災発生時刻を以て、昭和三一年一二月一一日の午前二時三〇分以前(恐らく二時頃)であるとなし、又、被告人神田は、同日の午前二時四〇分まで、来島村の飲食店「みなさま」で、門兄弟等と共に飲酒し、同所から出たとき、本件火災を望見した旨主張する。(前掲第一、二回公判調書、大脇弁護人名義各証拠申出書等参照。)併しながら、前顕証人石川正康、松田弁二、田部テフ、松原藤次郎、田中彰、秋山清、坂田雄の各証言等に徴すれば、本件火災が同日午前三時頃発生したことは、動かし難いところであつて、又、前顕証人板垣シゲヨ、門龜一、門正の各証言、被告人神田の司法警察員に対する供述(昭和三一年一二月一八日附及び同月二二日附の分)、同被告人の検察官に対する供述等によれば、被告人神田が最後に「みなさま」から出たのが午前二時二〇分前後であつたことを認めざるを得ない。而して、前顕医師森安勇、同吉田重春作成の各鑑定書、司法警察員作成の「頓原町信高万之助被害強盗殺人放火事件捜査状況報告について(神田太吉の一二月一〇日夜の行動実測捜査について)」と題する書面等によれば、被告人神田は、かねてから慢性の左側陰嚢水腫及び副睾丸炎に罹つてはいたが、本件火災の際、自転車に乗り「みなさま」を出てから火災発生時刻までに現場に到着することは、時間的にも、又、肉体的にも十二分に可能であつたことを窺うことができる。前顕同被告人の司法警察員に対する供述(昭和三一年一二月一八日附及び同月二二日附の分)及び同被告人の検察官に対する供述の内容を他の諸般の証拠と対照して仔細に検討するとき、警察署及び検察庁における取調の際、同被告人が故ら虚構の事実を供述した形跡は毫も発見し得ざるのみならず、同被告人も亦事実を吐露したものであることは明らかであつて、前顕各証拠により、被告人神田自身が前記認定の如く、本件放火の実行行為に出でたものであることは、容易にこれを認めることができる。同被告人の司法警察員に対する供述調書(昭和三一年一二月一六日附の分)には、同被告人の供述として、「みなさま」から出たときは、三時二〇分であつたが、そのとき門龜一は、月夜にしては明るいのうと言い、自分は、今頃月が出るかいのうと言つたが、空を見ると、真赤になつていた旨の記載があり、第四回公判における同弁護人の質問に対する答として、三時二〇分頃「みなさま」に行き、其所を出たとき、火の手が見えたが、門兄弟もそれを見ており、火事の話をした旨供述しているが、これ等の供述及び供述記載部分は、前顕門龜一、門正の各証言に徴し、到底措信し難いところである。

然らば、被告人神田がナツノの首を絞めた際、同女は既に、同被告人以外の者に殺害(毒殺)されていた疑があるということ及び本件放火の準備完了後、被告人神田自身は、放火の実行行為に出でたものでないということを前提とする同弁護人の従犯の主張は、全くその理由がないといわざるを得ない。却つて、本件各犯行の際における被告人両名の役割、殊に、その実行行為分担の態容、金品分配の程度、計画実現に対する熱意等諸般の情況が前記認定のとおりである以上、被告人両名共、本件各犯罪につき、共同正犯たる地位に在ることについて、毫も疑をさしはさむ余地はない。

第二、被告人岡田の弁護人難波督は、同被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述のうち、公訴事実に符合する自供部分につき、その任意性を争い、これを以て証拠となし得ない旨主張するが、同被告人の公判廷における供述自体数多の矛盾を包含し、到底これを信用し難いのみならず、司法警察員及び検察官に対する供述の経過及びその内容を、前顕証人二宮寿三、赤田収平の各証言と彼此対比し、更に、公判廷における同被告人の供述態度に照し、右自供の任意になされたものであることは、一点疑の余地がない。而かも、それが真実を吐露せるものであることは、既に、前段において説示せるところによつても自ら明らかである。よつて、同弁護人の右主張もこれ亦理由がない。

(法令の適用及び本件犯罪の情状)

法律に照すに、被告人両名の判示各所為のうち、判示第一の二箇の強盗殺人の点は、いずれも刑法第二四〇条後段、第六〇条に、判示第二の放火の点は、同法第一〇九条第一項、第六〇条に、死体損壊の点は同法第一九〇条、第六〇条に該当するところ、右のうち、放火の点と死体損壊の点は、同法第五四条第一項前段の一箇の行為にして数箇の罪名に触れる場合に該当し、又、これと判示第一の二箇の強盗殺人罪とは、同法第四五条前段併合罪の関係に在る。さて、大脇弁護人の従犯の主張の採用し難いことは、既に、前段説示のとおりであるが、進んで、本件犯行の動機、計画実現に対する熱意、万之助夫婦殺害における死体の処置方法、その他一切の事情において、被告人両名のため酌むべき情状の有無を検討するに、先ず、前顕証人門龜一、門正の各証言等によれば、本件火災当日たる昭和三一年十二月一一日夜、被告人神田が友人たる門龜一、門正両名に対し、本件犯罪の一部について告白し、当夜、右両名の勧めによつて自首すべく、龜一に連れられて、一旦来島駐在所の前まで赴いたに拘らず、同被告人は、一晩考えさせて呉れとて、自首を取止めたことが認められる。併しながら、同被告人が門兄弟に告白したのは、決して自ら進んで告白したのではなく、当日、頓原町の大衆食堂で門兄弟等数名の者と共に酒を飲んだ際、焼跡から万之助夫婦の死体の白骨や焼残りの内臓が発見されたことが話題に出て、その頃は既に大騒ぎとなつており、且、その場に居合せた者の中には暗に同被告人を怪しむかの如き言動をなす者もあり、神田としては、内心の不安、動揺を包み切れず、その挙動にも不可解な点があり、よつて、門兄弟に追及されるや、当初は、一応否定したが、も早や隠し切れないと観念し、已むなく本件犯罪の一部について告白したに過ぎないことが明らかであり、到底、これを以て良心の苛責に耐え兼ねて告白したものであるとは認め難い。而して、自首を取止めたのは、被告人神田が岡田と共に本件犯罪の遂行につき謀議した際、岡田が、仮に事件が発覚しても、自分は絶対に自白しないし、若し発覚したら、青酸カリで自殺すると言つていたのを想起し、幸に岡田が自殺することになれば、自分が犯人の一人であることは、まず、発覚の可能性がないと信じ、暫く情勢を見守り度いと考えるに至つたためであつて、到底これを以て、特に、同被告人のため有利な事情として評価するに足らない。又、本件殺人行為に、兇器を使用しなかつた点も、これを目して本件犯罪の計画性、兇悪性或いは深刻性を緩和せしめるべき事由となし得ないことは、前記認定の事実自体に徴して明らかである。その他、被告人両名共、本件において、特に酌むべき情状は、全くこれを発見することができない。よつて、被告人両名に対しては、判示万之助に対する強盗殺人罪につき、いずれも所定刑中死刑を選択し、同法第四六条第一項本文に則り、他の罪の刑を科さず、以て、被告人両名を各死刑に処する。なお、訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条を適用し、そのうち、国選弁護人難波督に支給した分は、被告人岡田の負担とし、その余の部分は、被告人両名の連帯負担とする。

なお、万之助夫婦が、その生前、ナツノの姪の子供である深井みずゑ(昭和二六年一〇月二一日生)を預つていたこと及び被告人両名が万之助夫婦の寝室に忍び込んだ際には、右幼女も同室内に就寝中であつたことは、諸般の証拠によつて明らかである。よつて、本件は、右幼女の住居に使用する家屋を焼燬した事件として起訴され、起訴状にも罰条として刑法第一〇八条が掲げてあるけれども、被告人岡田は、万之助夫婦を殺害した日の翌日、右幼女をその生家たる簸川郡佐田村大字上橋波深井春信方に連れて行き、万之助夫婦が旅行に出掛けたことを理由として、右幼女をその両親の許に帰らせ、以てその監護の下に復せしめたものであることは、これ亦明らかであるから、そのときから、右幼女は、本件家屋に居住せざるに至つたものというべく、されば、被告人岡田以外の者の居住しない家屋に対する本件放火の所為は、刑法第一〇九条第一項に該当すると解するのが相当である。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 組原政男 西村哲夫 小河基夫)

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